左京亮・三河守。上杉家臣。長尾氏ではじめ景人と称した。竹俣城主・竹俣慶綱が天正十年(1582)六月に魚津城で戦死し、嗣子がなかったために長尾景人が相続し竹俣利綱を名乗った。
『文禄三年定納員数目録』 によると知行高は九百二十一石。慶長三年(1598)の上杉氏会津移封に従い二千百石を賜り守山城代。慶長六年(1601)に主家が米沢に移されると米沢城下に移った。慶長十九年(1614)利綱の遺領は市川房綱が相続しており、房綱は大坂の陣に出陣している。
式部少輔。葦名旧臣。葦名家没落後、越後に移って直江の配下となった。主家の会津転封後、対最上義光の最前線、中山城主(上山市)となる。1600年最上義光を攻めた際は、第二陣として篠井泰信、本村親盛らと里見民部が守る上山城(上山市)を攻めるが、敵の援軍草刈志摩守も到着し、物見山の戦いで敗北。この戦いで本村親盛が討死した。また横田氏は赤湯に開田し、後に横田家中の者十九家が赤湯北町に移り住み、今もその子孫が残る。