色部長門守光長 いろべみつなが (    〜寛永十七年)

 色部長実の男。幼名 龍松丸  与三郎綱長、修理亮、
 文禄 元年 (1592) 京都で長実の没後、光長が家督を相続し直江兼続の妹娶り、越後平林城主となる。
 文禄 三年 (1594) 4868石を知行 (文禄三年定納員数目録」による)
 慶長 三年 (1598) 景勝の会津120万石に転封に従い、金山城1万石の城代となる。
 慶長 五年 (1600) 山形合戦に敗れ(関が原の合戦後)、景勝の米沢移封以後は3330石となった。
          大坂の陣などに出陣した。
 寛永 元年 (1624) 一月十五日には長門守となり、同三年(1626)11月には侍頭となった。
 寛永十七年 (1640) 大坂冬の陣で奮戦、六月二日に没す。


芋川越前守正親 いもがわまさちか (天文八年 〜慶長十三年)

 武田信玄の家臣 芋川右衛門佐正章の嫡男。
 芋川氏は信濃国上水内郡芋川を本領とする在地領主であった(信濃若宮城主)。
 天正 三年 (1575) 正親も当初信玄に仕えたが、この年、上杉謙信に仕える。
           その後、景勝にも続いて仕え、
 天正 十年 (1582) 四月、上杉景勝の命により牧之島城将となる。
 天正十八年 (1590) 大宝寺城(鶴岡市)を守備したが庄内の検地反対一揆に敗れて落城。
 文禄 三年 (1594) 4486石を知行す。(「文禄三年定納員数目録」による)
 景勝の会津120万石転封に従って白河城代となった(知行 6000石)。
 関が原の合戦のあと、景勝が米沢に移ると彼は会津大森城代となる。

    以後、寛文四年(1664)まで元親、綱親、高親の4代にわたり芋川氏が城代を勤めた。


竹俣 利綱  (たけのまた としつな) ????〜1613

左京亮・三河守。上杉家臣。長尾氏ではじめ景人と称した。竹俣城主・竹俣慶綱が天正十年(1582)六月に魚津城で戦死し、嗣子がなかったために長尾景人が相続し竹俣利綱を名乗った。
『文禄三年定納員数目録』 によると知行高は九百二十一石。慶長三年(1598)の上杉氏会津移封に従い二千百石を賜り守山城代。慶長六年(1601)に主家が米沢に移されると米沢城下に移った。慶長十九年(1614)利綱の遺領は市川房綱が相続しており、房綱は大坂の陣に出陣している。

山浦景国(やまうら かげくに) 生没年不詳

信濃葛尾城主村上義清の子。通称源五、名ははじめ国清。義清が武田信玄に信濃を追われて上杉謙信を頼った際に父と同行、以後謙信の家臣となり外交・合戦・守備に活躍。天正七年に山浦氏の後を嗣ぎ、景勝の一字を拝領し景国と改名。関ヶ原の後は陸奥安達郡塩之森城代を務めた。



村上国清 むらかみくにきよ 1546〜1598
村上義清の男。通称源五・源吾。1553年の信濃脱出に同道し、のち越後北蒲原郡白河荘山浦の領主の家系である山浦家を継いで山浦国清、さらに1579年に御館の乱での功により、景勝から偏諱を受けて山浦景国と名乗る。1572年に越中で一向一揆と戦い、1577年に能登に出陣して末森城を守備するなど、主に北陸方面で活動した。1575年の「上杉軍役帳」によれば軍役高は景勝に次いで家中第二位(250人)。御館の乱では景勝に味方し、1582年の本能寺の変で信濃が混乱に陥ると、景勝は北信に侵入、信濃海津城代に景国を任命した。しかし翌年副将の屋代秀正が家康に内通したため、景国はその責を取らされて越後へ呼び戻された。小田原の役では上杉軍の先鋒として活躍。1598年の会津移封では安達郡塩之森(四本松:しほのまつ)城代。のち上杉氏を辞し、京都にて没。謙信の頃(元亀・天正期)家康との外交折衝にも当たっており(「上杉文書」)、多才な人物であった。


横田旨俊(?〜?)

式部少輔。葦名旧臣。葦名家没落後、越後に移って直江の配下となった。主家の会津転封後、対最上義光の最前線、中山城主(上山市)となる。1600年最上義光を攻めた際は、第二陣として篠井泰信、本村親盛らと里見民部が守る上山城(上山市)を攻めるが、敵の援軍草刈志摩守も到着し、物見山の戦いで敗北。この戦いで本村親盛が討死した。また横田氏は赤湯に開田し、後に横田家中の者十九家が赤湯北町に移り住み、今もその子孫が残る。

春日右衛門元忠  かすがもとただ   (   〜慶長十三年)

 信濃国更科郡春日の出身。武田旧臣。
 天正 十年 (1582) 武田氏滅亡後越後に来て景勝の臣となる。
 天正十二年 (1584) 信州青柳城代となる。
 天正十九年 (1591) 直江兼続と共に庄内一揆の残党を鎮圧する。この件で所領没収となった本庄繁長の居城本庄城
          (後の村上城)(村上市)に入る。
 文禄 三年 (1594) 本庄衆として2308石を知行 (文禄三年定納員数目録による)。
 慶長 三年 (1598) 高畠城代(高畠町)となり、高畠では白龍湖周辺の湿地帯大谷地の開拓を進めた。
 慶長 五年 (1600) 直江兼続について最上義光攻撃に参加し、長谷堂城包囲を行っている。
 慶長十三年 (1608) 米沢奉行も務めたが、同城で没した。

秋山伊賀守定綱  あきやまさだつな  (   〜元和元年 慶長二十年)  時綱

 式部丞
 上杉謙信に仕え、はじめ落水 (勝山) 城主であったが、後に糸魚川城に移る。
 天正 六年(1578)十二月に従五位下伊賀守に叙任。
 天正 十年(1582)越中におり、織田信長軍の侵攻を上杉景勝に報じている。
 文禄 三年 (1594) 彼は糸魚川衆として490石を知行。
 慶長 三年(1598)景勝の会津転封に伴い二本松城の城代を下条忠親と共に務め、2000石
          となった。
 慶長 六年(1601)景勝の米沢移封により320石となった。
 慶長十四年 (1609)四月に常陸海上船入普請で総監に命じられている。


志駄義秀( ?〜寛永9・1632年)
通称:修理亮
越後夏戸城主。
志駄氏は源為義の子義広を祖とし、常陸国志駄郡に住しその土地の名を称す。
南北朝時代の初期に上杉氏に伴い越後入りした。
文禄3(1594)年の「文禄三年定納員数目録」によると義秀は直江兼続家臣団の与板衆として1563石を知行し、軍役93人7分であった。
文禄4(1595)年1月、直江兼続と庄内金山を支配する。
慶長3(1598)年景勝の会津転封に従い、出羽酒田城5000石の城代となる。
慶長6(1601)年荒砥城代となり1000石を知行する。
元和8(1622)年米沢城にて奉行職となる。
寛永9(1632)年8月16日没。

大国実頼  おおくにさねより   (永禄五年〜元和八年)

上杉景勝の臣。 直江兼続の実弟。
天正 十年 (1582) 小国重頼の養子となり小国氏を継ぐがのち大国氏と改称した。
天正十四年 (1586) 新発田重家討伐軍に従軍。
天正十五年 (1586) 秀吉の聚楽第新築の際、上杉家の賀使を勤める。
文禄 三年 (1594) 十月二十八日、秀吉が上杉家の聚楽邸を訪問の際には太刀一振、小袖10、
         銀子50枚を献上した。
慶長 三年 (1598) 景勝の会津120万石転封の際、南山城主となり2万1000石、同心給として3300石、
          合計2万4300石を与えられた。
慶長 五年 (1600) 会津神指城築城の際には普請奉行である兄直江兼続のもとで小奉行を勤めた。
         山形(関が原)合戦後の景勝の米沢移封の際には出羽高畑城主となり7000石となった。
元和 八年 (1622) 二月九日没。


甘粕備後守景継 あまがすかげつぐ (    〜慶長十六年)

 上杉景勝の臣。 藤右衛門  清和源氏甘粕広忠より十五代の末孫。
 天正 五年(1577)甘粕継義が討死すると、上杉謙信の命で甘粕氏を相続した。豪勇で知られ槍と
           長刀の名手であったという。
 天正 九年(1581)十一月に護摩堂城主となり、同十一年には五泉城主となる。
 天正十七年 (1589) 出羽国 庄内地方が上杉氏に与えられると東禅寺城の城代となり十九年 家老の
           志田修理に命じて阿部氏の磐井出館を攻め落させた。
           はじめ清長と称したが、上杉景勝から一字を受けて景継と改名。
 文禄 二年(1593)庄内酒田城代。
 慶長 三年(1598)景勝の会津移封に伴い白石城に入り二万石を知行した。
 慶長 五年(1600)神指城の普請の際、奉行直江兼続のもとで小奉行を勤めた。
           米沢転封後は6600石

  一族の甘粕右衛門信綱らはキリシタンであったため1628年米沢北山原で処刑された。