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『行家』の供養塔 ? に関して疑問がわきました。
なぜ『顕家卿』の供養塔と同じ場所にあるのか。
行家とは、誰なのか。
右上に付けました「源 行家」の碑というのは本当なのか。源 行家は、鎌倉時代の武将で、時代も南北朝期とは異なりますし、行家の斬られた場所も泉州の貝塚とも山崎の赤井河原ともいわれるのに、なぜここにあるのかもわかりません。
「石津の民話」の第7話「十一の溝」の中に興味深い伝承が語られております。
要約しますと、
この「行家」というのは、顕家卿の直臣に「行家蔵人」なる者が居り、顕家卿は最後の出撃に際して、「我、戦死したる後は無理なる戦いは避けて、いったん河内の国に難を逃れ落ち延び、再び軍を興して敵の足利軍を滅ぼしてくれるように。そして、天皇の御心を安心させてくれるように」と頼み置いた。 蔵人の仲間は11名で、北朝軍の追求を逃れ、付近に隠れていたが、ひとりの村人の密告で捕縛され、石津河原で斬首されたという。 その斬首された場所が「十一の溝」と呼ばれるところであるとのことです。 後に、村人たちはこの11名の霊を弔うためその場所に地蔵尊を建立しました。 行家が捕らえられた場所には墓が建てられた。 この墓が「行家塚」と呼ばれているそうです。
また、「塚は行家の墓にあらずして顯家の墓なるを、村民に一丁字※なく、顯家のあを行家のゆに誤りて、かくは行家の墓なりと傳へしものなりとの説あり。思ふに本地附近は顯家戰歿の所なれば、其のいへるが如く顯家の墓なるべし。之に關し星野文學博士の意見あれば、左に其の全文を掲記して讀者の參考に資せん。」との説もあるようです。
となりますと、もともとの碑には「ゆきいへ」と仮名書きされていたのでしょうか。
※ 一丁字とは一個の文字のこと。全く字を知らず読み書きができないことのたとえ。 |
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