豊久着用の鎧は、『西藩野史』に得能道昭は「予、久芳君ニ聞く、久柄カツテ、豊久関ヶ原ニ着スル鎧ヲ求メ得タリ、冑ハナシ、槍ノアト二ツ、或ハ突キスベリ、或は糸ヲ突キ断チタルモアリ、裏ニ通レルハ少シ」と記されているそうです。

この鎧は紺糸おどしで、現在は鹿児島市磯の尚古集成館に保管されています。

所有:島津 基之氏

関ヶ原合戦での島津藩()

カンリン藪


   瑠璃光寺ノ傍にはカンリン藪 ( 高取 )

   と言われている林の中に豊久の墓があ

   り、島津塚と呼ばれている。

   この林は付近の住民によって聖域とし

   て昔より伝えられてきた。

   また立木に覆われた、墓の付近には、

   不思議と草が茂らないと昔から言われ

   ている。

           関ヶ原の戦いの後、薩摩藩と地元の役人との間で豊久の最後を伝える

           書簡が取り交わされた。


           また、言い伝えでは島津家は参勤交代の途中に寺や三輪氏へ使者を送っ

           てその礼を謝して、寺への祭祀料も欠かさなかったさいわれている。

  島津豊久の墓

   村の伝承によると、烏頭坂の激戦で重傷を負った豊久の一行は、井伊直政・松平忠吉・小早川等の

   追い迫る敵より逃れて、伊勢街道の勝地 峠にたどり着き、ここで待ち伏せ戦術をとって敵を退かせた。

   残兵たちは瀕死の豊久を介護しながら街道を南下して、上多良の白拍子の谷に隠れた。

   そしてさらに名及から樫原の地に逃れてきたところ、 瑠璃光寺の僧や名主の三輪内助入道一斉 など

   がこれをかくまい傷の手当をした。

   しかし、豊久の傷は重く、手足まとい になる

   ことを憂慮して、かくまわれていた農家で自刃

   したと伝えられる。

   瑠璃光寺の裏手の林には豊久の墓がある。

関ヶ原合戦での島津藩()

阿多長寿院盛淳の墓

上石津町牧田の琳光寺境内には盛淳の子孫に

よって立てられた墓がある。

その傍らには移設された盛淳の五輪塔を中心

に蒲生戦死者十八人の自然石がある。


墓石には次のように刻まれている。

前面   阿多長寿院盛淳之墓

側面   題字 公爵 島津忠重

      大正十二年九月十五日建立

            阿多廣介誌

  瑠璃光寺

 牧田上野の集落より南に10キロほど、伊勢街道をたどり、勝地峠を越えて山間の道を進んだ所に

 樫原の集落がある。

 現在の上石津町上多良樫原地区である。

 ここに瑠璃光寺という寺があり、島津豊久の位牌が奉られている。

 その近くのカンリン藪 (高取) と呼ばれている所に豊久の墓がある。

 また寺の梵鐘の銘には豊久に関する記述がある。



  島津豊久の位牌銘
   嶋光院殿忠道源津大居士
     慶長五年九月十五日

  
瑠璃光寺梵鐘銘
   南閣浮堤大日本濃州石津郡多良郷樫原邑
   高輪山薬師寺 曇花峰瑠璃光禅寺者・・
        ・・・・・・・・・・
   慶長年中当国関ヶ原陣之砌
   薩州島津中啓公於 此所戦死。
   於当寺葬 廟碑假然矣
  ・・・・・・・・
   維持天明七丁未稔孟夏法制定居日
   奉勅現妙応二十五世当山開閣円宗妙覚誌
   ※天明七年 (1787)
関ヶ原合戦での島津藩()

阿多長寿院盛淳

烏頭坂を越えて牧田上野の集落に達してもさらに東軍の追撃は

激しかっ た。追撃の先鋒の井伊直政と松平忠吉らの軍勢が島津

隊に迫った。

義弘はもはやこれまでと覚悟を決めて敵に斬れ込もうとするが、

阿多長寿院盛淳が押し止めた。

盛淳は「一軍の大将たる人が簡単に命を捨ててはいけません。

天命があるまで生き長らえ、千人が一人になっても、今日この戦

場から脱出してください。私が身代わりになります。」 と言って
  僅かな兵を引き連れ、 「われこそ島津兵庫入道惟新なつるぞ」と叫びながら敵中に突進して討死した。
   上石津町牧田の就業改善センター敷地内に
                阿多長寿院盛淳の石碑がたつ
   琳光寺の五輪塔

  江戸時代中期の宝暦年間、薩摩藩による宝暦治水お手伝い普請工事の時、薩摩藩士は再びこの地に

  やってきた。

  この戦いに参加した島津の子孫たちは、工事の合間に小さな石造りの五輪塔を作り、先祖の供養を

  したと伝えられている。

  阿多長寿院盛淳の五輪塔を囲んで蒲生戦死者

  十八人の自然石が巡っている。

  古来、この墓は触るとたたりがあるとして伝えら

  れてきた。明治40年に小学校建設の為、琳光寺

  の境内に移された。
資料館に展示されている 「 関ヶ原合戦 」 と 「島津豊久 」 に関する照会額を出来るだけ原版に近い状態で再現しました。
関ヶ原合戦と上石津
◇ 慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原合戦の時、西軍として参加した薩摩藩主島 津義弘の率いる一隊は、戦
  いに敗れましたが、果敢にも敵中を突破して活路を 西伊勢街道に求めて背進しました。
(東伊勢街道説もあります)
  この時、主君島津義(維新)を本国に生還させるため、甥の島津豊久(日向国佐土原城主)が牧田の烏頭坂
  で、上野では国老の阿多長寿院盛淳(蒲生の地頭)が 共に殿戦を行いました。豊久は重傷を負って多良まで
  たどり着きましたが自刃し、盛淳は上野で部下と共に戦死を遂げています。
◇ 島津豊久の碑は牧田の烏頭坂にあり、墓(島津塚)は多良の樫原にあります。
   なお、位牌は菩提寺の瑠璃光寺に祀られています。
◇ 阿多長寿院盛淳の五輪塔と墓碑は、上野の琳光寺境内に祭られています。
島津軍の背進経路

上石津町に伝わる史料によると、敵中を突破した島津義弘

軍は牧田路から西伊勢街道へと背進しました。

この時、岐阜城主織田秀信(信長の孫)の旗本として、西軍

に参加していた近江国川瀬の小林新六郎が、岐阜城の落城

により敗れて退去、多良を通って帰国の途中でした。はか

らずも、敵の追撃を遁れて背進中の島津軍に出逢い、太守

公(義弘)から山路の案内を仰せつけられました。これによ

り新六郎は、江州の保月を越えて高宮川原まで無事に道案

内しました。

※【九月十五日付義弘公
(忠平)よりの軍忠状】と【寛政元年九月

小林次郎左衛門より薩摩の御用人に宛てた文書】を参照。

その後、義弘の一隊は、水口〜信楽〜伊賀上野を経て大和

に至り、大阪城で人質となっていた義弘夫人と忠恒の夫人

を救いだして堺浦より出航、日向国細島に上陸し、ようや

く薩摩の地へとたどり着きました。この時、義弘に従い帰

国した者は80人程であったといわれています。
関ヶ原合戦での島津藩()

  関ヶ原 島津義弘陣所跡

    9月14日、夜半から西軍は大垣城の諸隊を

    関ヶ原へ移動させた。 雨の中、大垣城を出

    た西軍は美濃路・中山道を進まず、西に位置

    する南宮山の南麓へ迂回し、牧田を通り伊勢

    路から関ヶ原に向かった。

    島津義弘の隊は二番隊として三成の陣とする

    笹尾山の、南の小池に陣を構えた、陣容は先

    鋒に島津豊久があたり、その右に山田有栄、

    その少し後方に義弘の本隊があった。

    関ヶ原小池の神社の裏手に、島津陣所跡の石碑

    が建つ。

島津の退き口

      戦いの大勢はすでに決まり、西軍の敗走が続く中、陣を構えているのは島津隊のみであった。

    後ろには西軍の敗走兵とそれを追う東軍の兵が満ち溢れていた。数百メートル前方に家康の本陣が

    移動していたので、義弘はここに最後の戦いを挑むことを考えた。しかし、義弘を思い島津家の将

    来をうれう豊久や、盛淳の戦場離脱のすすめがあり、これに応じて退却することを決めた。

    その方法は、後ろに引かず前方の東軍の中を敵中突破で突抜け、南宮山と松尾山の間、前日来た道

    を南に抜けたという。

    前に退くという方法は前代未聞であり、その島津隊の勇敢さをして、この退却戦を「島津の退き口」

    と称された。

    島津義弘は生き残った兵をまとめ、これを4隊に分け、鋒矢 (ほうし) の陣形をとり、豊久を先頭に

    穿ちぬけして東南に進めた。鬼気迫る勢いで突進してくる島津隊に押され東軍についた武将と兵は

    唖然として見送ったと云われる。

    譜代の家臣たちが、その前面を固めていた家康の本陣の前方を一気に駆けぬけた島津隊は関ヶ原の

    戦場を脱し、山間の牧田方面へ向かった。
関ヶ原合戦での島津藩()

       島津豊久の碑

関ヶ原の戦場を一文字に脱した島津隊は、

山間の間道「烏頭坂」にたどり着いた。

ここまでたどり着いた島津隊は200人あまり。

烏頭坂で、それまで先鋒であった豊久の隊

は最後尾に回りこみ、追撃してくる東軍を迎

え撃ち、殿 (しんがり) として戦った。

島津豊久は島津惟新を名乗り追撃を引き付け、

先を行く島津隊を進めた。

 豊久は本多忠勝の兵に囲まれ、四方八方か

ら槍で突き上げらけるうちに、義弘の身代わ

りとして着ていた、猩猩緋の陣羽織は散々に

飛び散った。
   豊久に従った13人の武将もことごとく討死したといわれる。

   豊久については、ここで亡くなった説や重傷を負いながら烏頭坂を脱出した説など諸説ある。

   上石津町牧田門前に島津豊久の石碑が立つ。
        烏 頭 坂

関ヶ原の平地を南に進むと山間に街道がある。

伊勢につながる伊勢街道である。

この坂を過ぎて牧田上野で道は、養老山地の

東麓を進む伊勢街道と西麓の山間を進む裏伊

勢街道に分かれる。

島津は義弘を守るため、隊をいくつかに分け、

さらに道を南に逃れた。

この関ヶ原を抜け山手にかかる山道を古来よ

り『烏頭坂』と呼んでいる。
上石津 郷土資料館
上石津郷土資料館のパンフレットの背進路
関ヶ原合戦での島津藩()


 大垣での島津

   島津義弘の部隊は中仙道沿いに進み垂井に到着し、5日ほど滞在し大垣に入った。

   東軍の大垣攻略を防ぐため、8月22日義弘は、三成からの要請で墨俣に兵を進めた。

   東軍は、まず岐阜城を攻略した。ここは大垣城の東、揖斐川を渡り、清洲と大垣を結ぶ美濃路街道の

   長良川の川渡し宿である。

   三成は小西行長らと大垣城を出て、城の北東呂久川 (揖斐川の支流) 下流の澤渡村に出た。また家臣

   の舞兵庫を石田の兵を関ヶ原と岐阜を結ぶ中山道の合渡川 (長良川の支流) の渡しに配置して東軍の

   西進に備えた。

   8月23日岐阜城の攻略で戦功の無かった黒田長政・田中吉政・藤堂高虎らは大垣城へ進むべく中山

   道を西に進み、合渡川 (河渡川) において石田の兵を撃破して侵攻した。朝より島津・小西を陣に招き

   戦略を論議していた三成は合渡川の敗戦の報告を聞き、大きく狼狽した。

   この時、 義弘は墨俣に陣を張る豊久ら島津の兵を退却させてから退却すべきと主張したが、取り入れ

   られなかった。 義弘の家臣の新納弥太右衛門・川上久右衛門らが三成の馬のくつわを押さえて、「惟

   新主従を死地に陥れひとり退くのは卑怯ではないか。」と罵ったが、三成は対応策を議論することなく、

   すぐさま大垣城に退却した。自らの兵を墨俣に出していた義弘は孤立していた豊久をはじめ島津兵に撤

   退の命令を出す一方、その間、呂久川の堤の上に手持ちの兵を並ばせて東軍に対した。しかし東軍から

   の攻撃は無く義弘は、大垣へ戻り、大垣城の北の楽田に陣を敷いた。この夜半に東軍の先発隊は呂久川

   を渡り、大垣城の北北西の赤坂に進み陣を張った。

   23日に大垣に着いた宇喜多秀家は、赤坂に着いた東軍は本日の戦いで疲れているので。夜襲をもって

   これを攻撃すべきだとして三成にせまった。 義弘もこれを良しとして参加を申し出たが、三成はこの

   案を退けた。 島津軍は度重なる冷遇と軍議での意見の違いなどで、不信がつのり西軍の一員としての

   戦意を失っていく。

   9月13日、楽田の陣に阿多長寿院盛淳・山田有栄・伊勢貞成らが兵を70人ほど引き連れて着陣した。

   すぐさまその中の2人が陣の北の曽根城に奇襲をかけた。兵力は少なかったが、義弘を慕い国元より三

   々五々集まった島津軍の団結は固かった。家康が清洲から岐阜経由で赤坂へ向かう途中、北方のあたり

   で島津隊の偵察隊と遭遇し鉄砲の一斉射撃を受け、危うい場面があったと伝えられる。

   9月14日昼頃、家康が赤坂に到着する。西軍は杭瀬川の戦いで小戦を勝利し大垣城での攻防戦を準備

   していた。義弘は再度赤坂への夜襲を提案するが三成に退けられた。

   東軍が、赤坂から西に向かい大坂に向かうとの情報を入手した三成は夜半から大垣城の諸隊を関ヶ原へ

   移動させた。雨の中、大垣城を出た西軍は美濃路、中山道を進まず、西に位置する南宮山の南麓へ迂回

   し牧田を通り、伊勢路から関ヶ原に向かった。